40年前の苦痛を思い出す
顔面神経麻痺が発症してもうすぐ3か月。徐々に回復してきているが回復は遅い。身体(顔面)が自由に動かないのは辛い。
昔を思い出した。ちょうど今から40年前、ウインドサーフィンに夢中で自分で作ったノンフローター(止まってると沈んでいく)ボードで練習中に突風に飛ばされマストで腹を打って腸壁が破れて手術した。
始めは盲腸のつもりで局所麻酔で回復したら腹の中が血だらけだった。そこから腹を大きく切ったが途中で麻酔が切れて痛くてモルヒネを何本も打ったが効かず最後は気絶していた。手術が不十分だったため数日間痛みに苦しみ、後日、救急車で大きな総合病院へ運ばれ緊急オペをした。自分は腹が痛くて、手術でなんとかしてくれと思っていたので助かったと安心していたが、看護婦をしていた従妹が「家族親戚に連絡をして下さい」と医師から言われ普段そんなこと言わない先生だったのでとても心配したそうだ。
手術を上から見ていた別の看護婦さんの話では腹の中が血だらけで酷かったらしい。痛めた上行結腸を20cmほど切って繋げ、他に損傷がないことを確認して無事手術は終わった。と後から聞かされた。出血量が多かったので3人分の輸血をした。血が入ると身体が熱くなるのを感じた。手術後は集中治療室で看護されたが鼻と尿道から管を入れられて苦しかった。その後、一般病棟へ移され「腹の中が癒着しないように出来るだけ動け歩け」と言われたが1週間程度寝たきり状態になっていると筋力が急激に衰え5mと歩けない。トイレにも行けない。腸を手術したので食べられない。栄養はすべて点滴からで、毎日数本の点滴を手の甲や肘の内側などの血管から入れるが両腕穴だらけになっていた。点滴をしながらトイレまで歩けるようになったが、それだけで疲れ果てていた。
腸を手術したが胃は元気なので腹は空く。何か食べたいが食べられない。お見舞いで頂く食べ物は罪だ。自分は食べられない。付き添いの母には「食べなよ」と言いつつも辛い。どうしても我慢できなくなって、コーヒー牛乳のフタの裏を舐めさせてもらった。
そのうち、重湯のような流動食が少し食べられるようになる。味気ない重湯だが、久しぶりの食べ物に舐めるように完食した。やはり口から入る食べ物は点滴と違って力が出る。物が食べられるようになり歩けるようになれば退院となり自宅療養となった。
食事は柔らかいもので薄味の物を食べながら少しずつ固くしてゆく。身体も徐々に動かしながら社会復帰を目指した。
結局、会社は3か月休んだ。初めは楽な仕事にしてもらっていたが家のように好きな時に横になれるわけでは無いのでとても疲れたことを覚えている。
このケガで色々なことを学んだが、時間がゆっくり流れる感覚も味わった。
ケガする瞬間、突風でセイルと身体が海面に打ち付けられるのに1,2秒のできごとだと思うが、その間このままセイルの上に落ちればセイルが破けると思い、飛ばされながら身体をセイルの上から外へどかそうとした。が、胸にハーネスラインが引っかかっていたので下半身だけ外へ移動したため腹をマストで強打したのだ。この間まるでスローモーションのように感じた。
よく、事故の瞬間スローモーションのように感じてよく覚えているという話を聞いたことがあるが、この感じなんだと思う。
最近は健康で好きなものを飲み食いし、自由に動き回ることがあたりまえで、もう病気にはならないと油断していた。
顔面神経麻痺になり不自由になり昔を思い出した。
食べ物は味わいながら食べられることに感謝し内臓の負担を考えながら食べる。
身体は使わないと急速に衰えるが使いすぎてもダメージを与える。身体を冷やさない特にお腹を冷やさない。
高齢になるとだんだん動きが不自由になっていくが、時々昔の不自由だったころの事を思い出し、内臓や身体を労わりながら死ぬまで元気でいたいもんだ。しかし喉元過ぎればなんとやらで、すぐ忘れちゃうかも。
まあ、あまり深刻に考えずに人生いろいろあるなと思って生きてりゃいいさ。